正直、旅は苦手だと思う。

とくに、目的を持たないひとり旅は。

どちらかと言えば定住型らしく、家に閉じ籠っている方が好きで、ひとりで散歩をするのも得意ではない。その傾向は段々強くなって行っているような気がしている。遊牧民のようにひらりふらりと出て行けるひとが羨ましい。

 

学生時代には「青春18きっぷ」で一人旅をしなければ一人 前ではない!という妙な強迫観念があり、夏の盛りに京都まで鈍行を乗り継いで行ってみたりもした。しかし9時間もの間、口を塞いですることもなく、風景を 楽しむのにも飽き、意外に乗り換えが多いために乗り遅れたらどうしよう、変なところに着いちゃったらどうしよう、という不安もあって、着いた頃にはへとへ とだった。今では少々別の方角に向かってしまったところで同じ日本国内ならどうにかなるだろう、という多少の度胸はついたので、ひとりで出掛けてもその頃 よりは少しマシな旅になるかも知れない。

 

しかし残念ながらその鈍行の旅の記憶というのが、全くと 言っていいほど残っていない。遠かった、という記憶だけである。京都は何度も訪れているので他の旅とごっちゃになっているのもある。「鈍行で一人旅をして みる」という当初の目標は果たすことが出来たし、私には向いていない、ということも分かった。それはそれで充分実りのある旅だった。

鈍行に懲りたのでその旅の帰りは新幹線で帰京した。

 

夜行列車、寝台車。旅はやはり列車に乗ることが多い。どれ も日々の移動とは違う、スペシャルな空気があって大好きだ。他県に行って、そこで乗るローカル線もよい。一度、昼近くにローカル線に乗り、家族で向かい合 わせの4人席を陣取り、こちらは旅行者なのでお弁当にワインまで取り出して旅気分だったが、生憎地元では通学・通勤に使われる路線らしく、満員の学生服に 囲まれちょっと肩身の狭い思いをしながらそれでも旅ランチを楽しんだ。旅の恥はかき捨て、である。

 

日本の夜行や寝台車も素晴らしいが、イタリアで乗った2段 ベッド付きのコンパートメントも良かった。乗車の際のチケットの確認中に「カフェか?カプチーノか?」と聞かれる。何のことかと思えば朝食のサービスがあ るようなのだ。それだけでも素敵だが、さらに嬉しかったことに、車内の一角にいわゆるバールにあるような銀色に光るエスプレッソマシーンがちんまりと置か れていたのだ。朝、車掌はカプチーノもしくはエスプレッソを入れ、小さなパネットーネと共に配達に来てくれる。煎れたてのカフェの香りは本当に贅沢だっ た。イタリアでは、どんなところでもカフェには拘るところが、何だか可笑しかった。

 

バックパッカーのような、少しでも安く身軽にどこへでも、 という旅行は、それはそれで良いものだと思う。そういう旅のスタイルに憧れもないわけではない。手間と掛かる時間に見合うだけの刺激的な体験が待っている だろう。しかし、安直且つ迅速な日本の新幹線も捨てたものではない。景色はつまらないが、新大阪まで2時間半。夜9時過ぎの最終に乗れば、日付の変わる前 には東京に戻って来ることが出来る。車内販売のカートが巡ってくると、嫌が応にも「遠くへ行く気分」が盛り上がる。

出張の帰りの最終電車で、スーツにビジネスバッグの人々に 混じってビールを買い、往きには読めなかった本をゆっくり読み、気がついたら眠ってしまっていて、品川のアナウンスに飛び起き、バッグを掴んで降りる、あ の感じも嫌いではない。そう、出張に出ることを経験して、新幹線は山手線くらい気軽なものになった。乗り遅れても10分も待てば次の列車が目的地へ運んで くれる。以前は数日前にチケットを買って準備して乗るものだったが、最近はよっぽどの旅行シーズンでない限り、当日券売機で買うようになった。正に山手線 感覚である。新幹線のダイヤが変わったこともあるけれど、何より自分の意識が変わったのだ、と思う。

 

そんな気軽な乗物になっても、やっぱり新幹線は特別だ。ゆったりしたシート。お弁当をひろげることを許される乗物。ゆっくり本や雑誌を広げられる乗物。私を遠くへ運んでくれるもの。

 

旅は苦手だ、と冒頭で書いたが、行き先に目的がないことが 嫌なのであって、車でも電車でも飛行機でも、「移動すること」自体は嫌いではないようだ。好き、の方が勝っていると思う。それぞれの速度、景色、空気、匂 い、その先に待っていること。どんなに気の重い出来事が待っていたとしても移動している間の空白の時間は私だけのものである。

旅は空白の時間なのだと思ったら、嫌いになれる訳がないと気がついた。

 

前言を撤回する。私は旅が好きだ。

 

2009.10.25

 BOOK246 column vol.206