白く清潔で、そう強い香りもなく、手を伸ばせば当たり前に紙があり、レバーを軽く押せば水が爽やかに流れる...というのがごく普通の日本のトイレ事情。
たまにオシャレすぎてびっくりするような、思わず写真を撮ってしまうようなトイレもあるけれど、それは付加価値としての楽しみであって、 「トイレットペーパーが常備」されていて「水洗式」はほぼ日本全国当たり前のことになっているだろう。
でもそれは日本を出ても当たり前、なのだろうか。

初めてのアジア圏への旅は上海への出張だった。打ち合わせと制作物の工場検品とを兼ねた大切な旅。知らない空気、馴染みの薄い言語に 「仕事」がプラスされ、多分とても緊張していただろうと、今になって思う。
工場は上海から、広い広い海みたいな河を越えた先にある。
その船というのが、乗って大丈夫だろうかと心配になるいいかげん草臥れた代物。そこに人も車も一緒くたに乗り込む。


それはまだ良いのだが、取り付けられたトイレが「ただの穴」なのである。それまでヨーロッパ圏、しかも都市部ばかりしか旅したことの ない人間からすれば「これが噂の!」である。
話には聞いていたけれど実際に遭遇すると、
使用後は・・・えー、このまま?水へ放流?
風が吹き上げる穴ボコを前にすると、やはり「そのまま」が「見える」というのは 複雑なものだなあと感慨深いものがあった。
そうは言っても自然の呼び声に逆らうことはできないので使ったのだが、中途半端な高さのその気になれば中丸見えの扉は、さもありなん、 鍵がかからない。というか、鍵らしきものがあったかどうか。穴はまだ我慢出来るが、丸見えは困る。
そのときトイレに行列していた上海人の女性が、言葉が通じないにも関わらず、「扉を押さえておいてあげるから」と 親切にも声を掛けてくれた。
御礼に彼女が使用中には私が扉番をしてあげるという、心温まる一幕があったりもした。
しかし重たい曇天、船は揺れる、流れてくる重油の匂い。それから口が裂けても奇麗とは言えない穴だけのトイレに早くも 気分が悪くなりかけていた。自分の弱っちいメンタリティを呪うしかない。

もうひとつトイレで困ったことがあるのはベルリンでのことだ。
ベルリンの美術大学、当時通称でHdK(現在はUdK)と呼ばれていた大学で卒業制作展を行うために1週間ほど滞在したのだが、 HdKに在学する学生宅に寄せてもらうことになった。初めて会う人のお宅に一人でお邪魔するだけでも緊張するのに、泊めてもらうのだから こちらはいい加減恐縮しきっている。向こうだって事前に話があったとは言え困惑していただろう。しかも向こうは男性、こっちは女性。 今から考えれば、振り分けた教授ももう少し考えてくれれば良いものを。
そこで当然バスルームを使わせてもらったのだが、トイレのレバーがどこにも見当たらないのだ。
もう用は済んでしまっている。冷や汗だか本当に汗だか分からないものをかきながら、 レバーらしきものを探してバスルーム中をくまなく見て回ったがどうやっても見つからない。 恥ずかしいけれどもうどうしようもない。
観念して「流し方が分からない」と伝えると、彼はタンクの上についていた銀色の、小振りの椎茸くらいサイズのスイッチを ゴンっと殴りつけた。すると奇麗さっぱり流れて行くではないか。 確かに始めは「これかがスイッチか?」と当たりをつけてはいたのだが、しかしこのスイッチ。指で押したくらいではビクともしない。 本当に拳固で殴りつけないと動いてくれないのだ。その代わり正しく殴りつければかなりの水量が流れでる。日本風に柔らかい力では 働いてくれない、妙にドイツっぽさを感じるトイレであった。

例えばイタリアのトイレの中には、レバーはなくて、便器に繋がっている水道管についている栓を、それこそ水道の蛇口を捻るように 開けると流し去ってくれるものがあったり、フランスの安ホテルではトイレは共用のくせにビデだけは各部屋についていたり、本当に様々だ。
国によって「当たり前」が違うのは当然だが、家庭やクラス、地域、その時の時流によってたとえ同じ国内でも違いはあるのだろう。
店か家庭かオフィスかでも、トイレの在り方は多少変わってくるのだから。
(そう考えてみたら子供の頃にはまだボットン便所におとしがみ、というところも多かったと思い出した。)

高々数カ国見ただけでもこれだけの違い様。食事や睡眠よりも、もっと天然自然に、いかんともしがたい欲求と向き合わなくてはならない 場所だから自分の「当たり前」が通用する場所であって欲しい、とも思う。
しかし取り繕いようもない空間だからこそ、違う国であることに困惑させられ、旅の記憶を一層強いものにしてくれる、興味深い場所で あることも確かだ。

たかがトイレ、されどトイレ。
これから先、驚愕するようなトイレ事情に出会うことが楽しみなような、怖いような・・・。

 

 

「その穴の先には・・・」 2010.09.27

BOOK246 column vol.241

 

 

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著:東京トイレ調査隊 発行:ブルース・インターアクションズ
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東京の様々なトイレを調査したものがまとまった、その名も「TOKYO TOILET MAP」
凝りに凝ったデザインから、クールな空間まで様々紹介されています。