ふと、ああ神様はいるんだな、と思うときがある。
平均的な日本人である私は敬虔に一つの宗教を信ずることもなく、正月には神社に行き、葬式は寺で行い、幼稚園はキリスト教系 だったので楽しく降誕祭を祝っている。
しかし、森の空気に触れたとき、遠くに見える山に雲がかかっているのをみるとき、いま神様が俗界に遊びにきているかも しれないと思うことがある。

このサイトのコラム「緑について」で、青山一丁目周辺の緑について書いたが、もう少し足を伸ばして今回は赤坂氷川神社へ向かおう。
日 本全国にある氷川神社。氷川神社のウェブサイトによれば、その数261社。本社は大宮にあるという。その一つが実家の近く にあったお陰もあり、正月の初詣は、お屠蘇を祝いお節料理でふくれたお腹を鎮めるため、散歩がてら近くの氷川神社へとお参り に向かうのが常だった。
住まいを移してここ数年は、赤坂氷川神社に行くことにしている。
初 めて赤坂氷川神社を訪れたときは、まだ若い緑の美しい初夏だったと記憶しているが、正直驚いた。そもそも飲み屋ばっかりだ と思っていた赤坂が住宅地だったことにも驚いたが、赤坂氷川神社一帯は「森」なのである。周りは高級住宅ばかり。 静かなのは当然だろうが、こんな風に森閑としているとは。

神社に近づくにつれ、空気の中に静けさが増すのを感じると、結界が張られている、という言葉が浮かんでくる。それほど、緑が 濃く、静かで、それまでざわめいた人も段々と言葉が少なくなってしまいそうなほどひんやりと厳かな空気が漂っている。
広くも狭くもない境内に、樹齢何十年、いやもしかしたら何百年になるのだろうか、立派な木々が立ち、どんな晴れた日でも 薄暗いほど、見上げる空は茂る木の葉に隠れてしまっている。たいていの場合人影は少なく、ざわめきと縁遠い敷地には、 苔と狛犬とが待っているだけだ。

秋 のお祭りの時期は打って変わって境内がひとでにぎわう。賑わうと言っても、三社祭や神田祭のような大混雑の大騒ぎではなく、 地元の商店会が中心となりおっとりと品よく行われる。年に一度のお祭り、まあよい、と祭られた神様も受け入れてくれるようだ。 赤坂氷川町、とか、赤坂桧町とか、旧町名ごとに何台もの神輿が町を巡り、テキ屋のあんちゃんが焼そばをつくり、地元企業の ホッピーの店や近隣レストランがテントを張って店を出している。祭りの最後には、「赤坂氷川山車保存会」の尽力で、 数年前に復活した大きな大きな山車がゆっくり、ゆっくり人に曳かれて神社へ戻ってくる。

元旦に初詣に参っても、大概の場合人影は疎らだ。
し かし今年は様子が違った。例年より少し時間が遅かったこともあるけれど、今年は懐の具合で家で正月を過ごす人が多かったの か。賽銭箱に到達するまでに30分近くも並ぶほどの行列が出来ていた。しかしながらそれも明治神宮や浅草寺のような太い行列 ではなく、おいしい肉屋の揚げたてコロッケに並ぶようなこじんまりした行列なのだ。並んでいる間にふと見やった狛犬に、 お賽銭ではなく、おはじきと「ヤクルトもどき」が供えられていたのも、人生お金じゃないんだ、と思えて何だかおかしかった。

俗界とは線を引き神様の威厳を保ちつつ、おはじきを供えられても笑って済ましてくれる。そんなおおらかな神様が近くにいると 思うと、何となく心穏やかだ。
お 賽銭をひとつ放ってお参りしたら、ぶらぶら境内を歩き回って、回り続けている頭と身体を沈静させる。ニュートラルに戻ったら また街に、仕事に戻る。そういう風に付き合うために、神社や寺や教会や宗教は存在しているのかもしれない。 苦しいときの神頼み、ではないけれど、自分の中の大きな柱とならずとも、小さな拠り所として場所を提供してもらえるという のは、明るいことだと思う。

少し距離はあるけれど、BOOK246を出て六本木・乃木坂方面に向かう人はちょっと遠回りしてみてはどうだろう。鬱蒼とした神社の 境内でゼロに戻る時間も、たまにはあっても良いかも知れない。

 

 

赤坂氷川神社・東京都港区赤坂6-10-12

http://www.akasakahikawa.or.jp/
赤坂氷川山車保存会

http://www.hikawadashi.or.jp/NPO.html

 

 

2010.4.24

BOOK246 column vol.224