たべものを準備する場面というのは、どうしてこうも魅力的なのだろう。 レシピブックは手に取るくせにあまり真面目に読まないが、物語に出てくる台所やダイニングの景色には想像力を刺激されて、文字の間に色や匂いを探してしまう。

幸田文の随筆には台所の話がよく登場し、どれだけ近しい場 所であったかが分かる。父・幸田露伴の気に入るように整えられた膳の陰には、季節のものをより旨くより良いタイミングで、かといって「心と腕を尽くしまし た」という気概を見せないさりげなさを装うための、幸田文の気働きと経験が積まれている。
雪の降る日には鍋ではなくかえってシャッキリとした青い ものを食卓に上らせたい、鍋は木枯らしの日の方が似つかわしい、と書かれている。なるほど、と唸るしかない。 遠足に行けば、白くよく太り葉の青々した蕪を土産にする。それが小学校低学年だというから恐れ入る。幸田文のおみおつけの具はきちんと千六本に刻まれてい るが女中の大根はよくて十六本だと言い切る。こんな怖いひとと台所に立つのはご免こうむりたいが、食卓の、台所の、なんと生き生きとしていることだろう。

 

小説「流れる」(新潮社)では、女中の眼を通して一軒の置屋の舞台裏を描いている。華やかな御座敷と対照的な狭い台所、乏しい材料、へこんだ俎板。調理の シーンは多くないものの、コッペパンの値段や、カレーの肉を炒める描写に匂いや温度、調理している鍋の形を想像せずにはいられない。長く台所とともに生 き、且つ観察する眼と心をもった幸田文でなければ表現出来ないであろう、瑞々しさがある。

 

子供の本にもたべものがよく登場する。
台所は、一番身近な大人ごっこの場だからだろうか。普段のごはんに興味がなくても、パンやお菓子の特別アイテムが出来てくるとなれば、台所は魔法の場所に一変する。


「ぐりとぐら」のかすてら、「11ぴきのねこ」のコロッケ、「赤毛のアン」シリーズは多くのひとが舌なめずりしながら読んだことだろう。 「ちびくろサンボ」だって、虎をバターにしてパンケーキにして食べてしまう、という終わりでなければこんなに愛される絵本にはならなかったのではないかと 思う。


あまり有名ではないようだがモンゴメリの著書「マリゴールドの魔法」(篠崎書林)の中にも、「揚げ卵」や「来客用のケーキ」をつくる場面が登場する。
ま だほんの子供でしかないマリゴールドが「食料部屋」に入り、「料理用のストーブ」で調理をする。どちらの言葉も馴染みがない分、遠い外国の匂いがした。本 を読むと「揚げ卵」はバターでフライにした卵=焼いた卵、というだけのものらしいのだが目玉焼きでも卵焼きでもない「揚げ卵」という名前には特別なたべも ののような響きがあった。
「金色のロールパン」「ゼリーロール」「縞模様のサンドウィッチ」「なつめパン」「ぽんと行って取っといで」「穴蔵の壷 に入っているドーナツ」・・・。モンゴメリは少女心をくすぐる料理をよく分かっているようだ。目の前に出されたらただのケーキやクッキーでしかないかも知 れないものが、何か別の輝きを帯びてくる。

 

映像の世界ではもっと端的に、視覚から味や匂いを伝えてくる。「バベットの晩餐会」(ガブリエル・アクセル)や「タンポポ」(伊丹十三)はその代表格だろうか。


料 理・映画と来て忘れられないのは、台湾の映画監督アン・リーが、一流レストランの料理長を務める父親と三人の娘の暮らしとそれぞれの恋愛模様を撮った「恋 人たちの食卓」(1994年)。邦題ではピンと来ないが原題は「飲食男女」、そのタイトル通り、親子や恋人や友人が食卓に集まり食事をする。
父親 が自宅の調理場で料理をする場面が素晴らしい。刻んだり、蒸したり、揚げたり、捏ねたり、焼いたり、冬瓜に彫り物をしたり、鶏を絞めたり。家族の週一度の 晩餐のために父親の一流の技術が惜しげもなく詰め込まれる。料理人が暮らす家という設定ならば、それはいわゆる家庭の台所ではないのだろう。使い込まれた 鍋や包丁、蒸籠、俎板から次々と御馳走が現れる映像は何度見ても飽きることがない。この映画を見る時には、中華料理店を予約しておいた方が懸命だ。きっと 野菜の炒め物一品でもいいから、美味しい中華料理を食べたくなるだろう。

 

 

胃に収まれば消えてしまう一品のために、時間や素材がその上を通り過ぎていく。
台所。キッチン。厨房。
用途は同じものを指していても、呼び方で素材も色も明るさも微妙に異なるような気がする。

その前に立つひとによっても、そこから出される料理を食べるひとによっても、また違う趣きになるだろう。

 

出て来るのは夢のようなお菓子か、はたまた芋の煮っころがしか。
今日はどんな料理が出てくるだろう?

 

 

2010.1.9

BOOK246 column vol.215