なまえ

人は一生の間にどのくらいの数の名前を持つのだろう。
「名前」といっては語弊がある。呼び名、あだ名というべきか。

私の始まりは「じょじょ」である。
生まれたての私は、顔はくしゃくしゃ、鼻は埋もれ、髪の毛は極端に少ない。
それこそ里芋ほどもないくらいの髪の量で、女の子の姿として父はかなり案じたらしい。
今にして思えばどの赤ん坊もそんなものだと思うのだが、
生まれたときから見目麗しかったらしい兄と比べ、大分「ひどい」と映ったようだ。

その所為だろう、父は私のことを「じょじょ」(=字としては「女女」もしくは「嬢嬢」をあてるのだろう)と呼んでいた。それは子どもの頃の家族内での愛称となった。
お陰で女らしく・・・はならなかったかも知れないが、取りあえず性別を疑われないくらいの外見にはなり、ペチャンコの鼻は日々父が摘み続けてくれた所為か遺伝なのか、それなりの高さに成長し、ホヤホヤもないくらいの髪の毛は纏めるのが面倒なほどに増えた。

幼稚園では下の名前に「ちゃん」がつく。
小学校では名字に「さん」付けでことは済む。
中学・高校でも名字か、それにに派生するあだ名が多かった。今でも部活仲間の友達からは「青ちゃん」である。
そう言えば、どうも感情表現と表情に乏しい中学生だったらしく、一時「鉄仮面」と呼ばれたこともあった。
陰口でなく言われたので、イジメられていた訳ではない。多分。

面白かったのが大学に入ったときである。
下の名前で呼ばれるのは幼稚園以来とんとご無沙汰だったのに、大学でまたもとに還ったのである。
同い年の生徒が割合に少なく、4つ上、8つ上、近くて1つ上という歳のひとが多かった所為かも知れない。
また、下の名前に「ちゃん」がついた。
ぐるっと一回りしたようで、新鮮に可笑しかったのを覚えている。

幸田文の随筆集「月の塵」(講談社)に収められた「あだ名」というエッセイが好きである。
幸田露伴は彼女の「文」の字を「鍋蓋に猫のひげ」と教えたそうである。
何と愛らしい、ユーモラスな教え方だろう。
そしてなんとその後の彼女をぴたりと当てた名前だろう、と思う。
そのあとは「みそっかす」、「おたまじゃくし」、「かまぎっちょ」と、不名誉な、あまり嬉しくない名前が続いたようだが、そのひとつひとつも思い出と絡み合って、懐かしく嬉しい回想録として綴られている。

「名前」で思い出したのだが、小学校の宿題で名前の由来を聞いてくる、というものがあった。多分私も父に聞いたはずなのだが、何と聞いたのか忘れてしまっている。
父のことなので、「・・・な子に育つように」みたいな由来もなく、あったとしてもきっとはぐらかされたか、もしくは意味より字面を気にしてつけたのだろうと思う。

改めて自分の名前を紙に書いてみる。
美しいに波。
堅過ぎず柔らか過ぎず、バランスのいい、よい名である。
この字に、普通は読まないこの音をあてたことも父らしいと思う。
幼くてもおばあさんでも、溌剌とした若さにも落ち着いた風貌にも、どれにも無理なく添う名前である。

「名は体を表」しているかどうか。それについては疑問は残るけれど、
生まれて一番初めに贈られたこの名前は、間違いなくなにより大切な宝である。