きりとれない空

空が高い、と思う日がある。
空が澄んでる、と思う日もある。
でも、空が広いなぁと思うことは、東京で暮らしているとあまりない。
遥か頭上にある建物に挟まれた隙間に、
その日その日の明るさや色や形を見つけることで「空」を感じている。
悲しいかな、挟まれて阻まれてこその空が東京の空なのだ。
そんな青さしか身近になくても、ここを数歩でも離れたらひろい空が待っている。

話しは変わるが、「さらば青春の光」(原題:Quadrophenia)という映画をご存知だろうか。
もうかなり前の作品だが、Mods好きやSting好き、もしくはイギリス映画がお好きな人々なら多分ご存知だろう。
映画としてはあまり私の好みではなかったけれど、一つだけ、最後に主人公がベスパを乗り捨てるシーンで登場する、青々とした草の色と、白く切り立った断崖絶壁の景色が印象的だった。
あとになって調べてみたら、その岸壁のある場所は「Seven Sisters」という場所らしい。

所用でロンドンに滞在したある朝、まだ空に夜の色と朝焼けとが混じる時間に目が覚めてしまった。
その日は夕方まで時間も空いていた。そんなに早起きしたところで街はそれほど楽しめる時間でもない。
ふと、あの映画の断崖絶壁を見にいこうと思い立った。
調べてみると、2時間も掛からず着けるらしい。日帰り旅行にはちょうど良い距離。

目的地の最寄りの駅・Seaford駅に着いたものの、その先に行くためのバス乗り場は分らない、バスに乗ったはいいけれど降りる停留所を間違えて通り過ぎてしまった。
「この停留所からでも行こうと思えば行けるわよ」という運転手の言葉を信じて、
周りに何にもない、目印すらもない小高い丘でバスを降り、当てずっぽうで歩き出した。

ぬかるんだ泥だらけの道を行けば、行き止まりに羊が待っている。
引き返して別の道を進めば結局また鉄条網に阻まれ、
牛に横目で見られながら、多分超えては行けないであろう柵をまたぎ、
馬の進む先を阻まないよう用心しながら、丘の上から見える海岸を目指して兎に角進む。
不思議と人ひとり見かけなかった。
そこには戸惑うほどの、本当に遮るものの何もない、広い空と平原が広がっていた。

目指す海岸より離れた小高い丘から、延々と続く野っぱらを歩いていくと、何か「魔法のかかった風景」を歩いている感じだった。海岸に向かって進んで いけば進んでいくほど、すぐ周りの景色は音を立てるように後ろへ流れ去っていくのに、行きたい場所はどんどん遠ざかっていくような感覚。

子どもの頃に読んだ本「魔女集会通り26番地」(ディアナ・ウィン・ジョーンズ/偕成社)は名の通り魔女や魔法のお話し。その中の一節で、うろ覚えだがこんなようなことが書いてある。
話しに登場する「禁断の庭」を正面に見てまっすぐ進むと、庭はどんどん遠のいていく。しかしその庭を目の端で捉えながらその庭とは反れた方向の、斜めに向かって進んでいくと、庭はこちらに向かってずんずんと近づいてくる。そんな内容だった。
その一文を思い出すような、なんとも名状しがたい距離感。
自分の居る場所と、向かう先の距離を測る目印がなくて、自分の足下の土と草を信じながら歩く感じ。
このまま何処にも辿り着けないのではないか、と微かに覚える不安。
しかしふと歩みを止めて仰ぎ見てれば、空は広くて美しかった。
流れていく白い雲も、途中から立ちこめて来た灰色の広い雲も、
普段見ることのない広さだった。

結局のところ、Quadropheniaの景色そのものをみることは出来なかったけれど、
潮風の匂い、草や泥道を踏む感触、小石だらけの海岸、お約束の(今では珍しくなってしまったが)英国的曇天、高いところから臨む海と草原の風景、白く切立つ岸壁・・・いつも身近にはないものを全部取り込んだ一日になった。
東京から「電車で1時間」でも、ここまで手の入っていない、違う景色に出会えるだろうか。
トロトロ走るイギリスの列車に乗って、1時間でこの違い。

「切り取られていない」空を仰ぎ見ることができる。


普段は隙間からその日の天気を占うだけの空。
たまにはこんな休日もいいものだ。

 

BOOK246 column 2012.05.27